A jewel in a dunghill

雑念の地下シェルター

げんしけん

オタクといえばどんなイメージを思い浮かべるだろうか?
鉄道オタクやアイドルオタクなどサブカルチャーのファンの総称のことを指すオタクは複数の種類に分かれている。
 だがオタクと聞いてほとんどの人が思い浮かべるのはアニメオタクという存在ではないだろうか?
オタク=アニメという図式は多くの人が感じていて、その原因となったのは電車男のようにオタクに焦点を当てた作品があったのも原因の一つだろう。
オタクとオタクではない人の間には目には見えない壁があり、オタクは同じ趣味を持つ人同士で好きなことを語り合いたいのにその相手がいない。
だからこそ2ちゃんのような特定の分野について語り合うインターネット掲示板には人は集まる。
オタクは孤高の存在であり好きな分野を語り合う存在を欲するが、その相手は周りにはいない場合が多い。

          f:id:vault0401:20150126184249j:plain

今ではアニメを見る人やゲームをする人は多い、だがそこまで普及していなくネットも今ほどではなくオタクが市民権をもっていない時代、大学のオタクサークルこそオタクにとっては心休まる場所であったはずだ。
そんな大学のサークルにおけるオタクだけでなく、オタクと一般人の認識の違いを描いたのが漫画の『げんしけん』だった。
現代視覚文化研究会、略して『げんしけん』は大学が舞台でありながら教室で講義のような日常風景はいっさい排除し、部室や学園祭、秋葉原や現実でいうコミケといったオタクのオタクらしい行動しか描かれなかった。
同人誌やゲームを買う為に徹夜して並んだり、自分の格好に一切気をつかわないで好きなものだけに全てをつぎ込むが、その端々で彼らは一般人とのギャップを感じる。
普通にバイトしたり恋愛をしている周りの青春と自分たちの青春は違う。
オタクであり、趣味に打ち込むのは悪いことではない。何より彼らがそれを望み実行しているのだから当然だ。

          f:id:vault0401:20150126184349j:plain

だが彼らもずっと同じでいるわけではなく、大学を卒業したら働きいつまでオタクでいるのかなんてわからない。
いつの日か自分はオタクでいることをやめてしまうのでは?
だけど彼らはきっとオタクであり続ける。それが彼らのアイデンティティだからではなく、オタクになってしまったからだ。
 
「オタクはなろうと思ってなるものではなく、気付いたらなってしまっているもの」
作中で春日部咲はそう説明し、それは笑えるけど私たちにとっては悲劇だと語った。彼らは恋愛したり就職したり、周りのオタクではない人と同じようなことをしていってもオタクであり続ける。それはきっと死ぬまで直らない病みたいなものだろう。
もしかすると彼らは直したくもないオタクという病気であり続ける患者なのかもしれない。