A jewel in a dunghill

雑念の地下シェルター

桐島、部活やめるってよ(映画)

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この物語の大きなテーマとなっているのは高校におけるスクールカーストであり、その学校に通うものにしかわからない生徒間の階級制度が見えてくる。
その中で小説ではカーストの中でも上位、中間、下位とあらゆる視点の生徒により描かれたが、映画では小説にも出てきた前田涼也という映画部の生徒の視点によって描かれる。
前田はとても地味な生徒であり、今で言うリア充と呼ばれるようなカースト上位にいるものたちとはかかわり合いもなく、どこか嫌っている。
自分をいじめてくるわけでもないのに、前田が抱く上位の者たちへの印象は良いものとは言えなく、そこにはどんな高校生でも間違えないカーストでの自分の立ち位置への屈託のようなものさえ感じられる。
自分がカーストの下位であることは理解しているが、上位の奴等はバカとさえ思っているような、学校だけの立ち位置では負けていても根本的なものは負けていないというような意志が感じられる。
 
しかし現実はそんなに甘くなく、カーストが上位の奴に限って成績も良かったり性格も悪くはなかったりと、どこか憎むとこがあればそこを批判していけるのにそれが見つからない。
結局下位の自分が1番何でも知った気になっていたことなどという学生のリアルが作品の中にはあった。
そして何よりこの作品の面白いところは、自分が学生時代の過ごし方に応じて作品への思い入れが変わってくるということだ。
学生時代、カーストが上位の者に対して鬱憤があった人はこの作品を見るときに紛れなく主人公の前田と同じ視点になって物語を見ていく。
自分の学生時代と重ね合わせ、フィクションでありながらリアルな学園描写に当時のモヤモヤとした思いと共に作品にのめり込んでいく。
それに対し、上位の人が見た場合は主人公に感情移入した感想は帰ってこないだろう。
なぜなら本作は前田の視点から描かれていて、上位の生徒も別の視点としては描かれそこには葛藤はあるが、上位にいたからこそ感じることであり誰しもが持つ悩みではない。
ここに物語の真実が隠れている。
下位の者が悩み苦しむことは皆共通しているのだ。
他人からどう思われるとか、自分がどんな容姿をしているだとか、運動ができないとか、全ては劣等感であり自分の認めたくないのに受け入れないといけない部分がそこには隠されている。
だからこそ前田が感じていることを視聴者の中でも下位にいた人は痛いほど理解し、上位にいた人はその悩みや感じていることにあまり共感できない。
なぜならそんなことを思ったことはないのだから。
どんな学校にも目には見えないがはっきりとカーストが存在し、それが存在することが当たり前だと思っている。
高校を卒業すると、それがどれほど変なものだったかにようやく気づき、その呪縛ともいえる制度から解放される。
狭い世界で自分の存在を理解し、大人になり切れていない不安定な高校生はそれぞれ悩み苦しんでいる。
その中でも下位にいた人なら誰しも共感することができる、この映画はいわば呪縛からの解放を第三者の視点になることで改めて認識する映画である。
高校を卒業し進学したり就職したり大人になっていく私たちは、過去にあったカーストを思い出すことはできるがいつの間にか関係なくなっていき、いつしかそんな制度のことを忘れはしないが考えなくなる。
前田の視点と当時の自分のカーストを重ね合わせることで視聴者は初めてカーストという呪縛から開放されていたことに気付くのだ。
学園が舞台の作品はいくらでもある。登場するキャラクターは悩み、成長していくのが青春物の決まりだ。
しかし今作は当時話題になり始めたスクールカーストに着目し、誰もが感じることを文にしたということが生々しくもあり、斬新であった。
高校時代に当たり前なことも社会に出れば何ともないことだったり、学校という今考えればおかしなことばかりの場所を思い出すのも意外と悪くはない。